「ヘッドライト早期点灯研究所」は、早期点灯の実施に役立つ情報の調査を行うチームです。今回は早期点灯から視野を少し広げて交通安全の歴史にフォーカスします。今回は江戸時代から明治時代について調べてみました。
歴史を見ることで今後の交通安全、ヘッドライトの早期点灯につながるヒントが見つかるかもしれません。なお、今回は、「道路交通問題研究会編 道路交通政策史概観」を参考にまとめています。
早期点灯研究所内で交通安全の始まりについて話し合ったところ、江戸時代が始まり。という説が出てきました。「武士は左側に刀を差しており、前方から来た武士に抜き打ちに切られないよう、右側通行で歩くようになった」という説や、「参勤交代で大名が行き違うタイミングを調整していた」など、これらのエピソードをインターネット上で調べてみると、いくつか見つけることができました。また、
歩・車道の分離については、慶応年間、横浜の外国人居留地に建設された馬車道を最初とする
※道路交通問題研究会編 道路交通政策史概観より引用
※慶応年間は江戸時代 1865年-1868年を指します。
ともあり、国内外の要因に関わらず、江戸時代から交通安全の意識が生まれたのかもしれません。
江戸から明治になり、移動手段は大きく変わります。
明治2年2月には諸道の関所が廃止され、次いで同4年9月、寄留旅行の鑑札制度も廃止となり、庶民の往来は全く自由となった。さらに同5年には、なが年にわたって、東海道を初め諸街道の輸送をになってきた伝馬所と助郷が廃止となり、これに代わって各駅陸運会社が当たることになった。
これまで、徒歩のほか駕籠や馬に頼っていた道路交通は、人力車や馬車の登場とその後の普及によって、その様相を一変し、往来はますます盛んとなった。しかし、狭隘な道路を行き交う車馬による交通事故が懸念された。そこで、政府や府県では、乗馬や早駆けなどの危険行為の禁止、沿道住民への道路掃除義務化、往来の妨害や道路の不正使用の取締りなど、種々の規則を制定して危険防止策を講じている。
※道路交通問題研究会編 道路交通政策史概観より引用
また、
沿道住民に対する道路掃除の義務付け(明治5年10月太政官布告「道路掃除条目」)や、往来の妨害・道路の不正使用の防止、無灯火禁止などの布達によって、その取締りを強化している。
※道路交通問題研究会編 道路交通政策史概観より引用
としており、交通事故防止よりも交通の秩序保持の意味合いが強かったものと思われますが、ヘッドライトの点灯に通じる内容としては「無灯火禁止」の文字が現れていることから、「明かりを付けた通行」はこの明治の初め頃がスタートという事が分かります。
明治時代の交通ルールに関することとして、当時の様子を記したものがが残っています。
明治初年の東京における通行人の様子について、大森貝塚の発見で有名なエドワード・S・モース(1838~1925)は、次のように述べている。
東京のような大きな都会に、歩道が無いことは奇妙である。往来の地盤は固くて平らであるが、群衆がその真ん中を歩いているのは不思議に思われる。人力車が出来てから間がないので、年とった人々はそれを避けねばならぬことを、容易に了解しない。車夫は全速力で走って来て、間一髪で通行人を轢き倒しそうになるが、通行人はそれをよけることの必要を知らぬらしく思われる。乗合馬車も出来たばかりである。これは屋根のある四方開け放しの馬車で、馬丁がしょっ中走っては、人々にそれが来たことを知らせる。反射運動というようなものは見られず、我々が即座に飛びのくような場合でも、彼らはぼんやりした形でのろのろと横に寄る。
※道路交通問題研究会編 道路交通政策史概観より引用
「歩道が無い」「道路は固く平らでしっかりできているが、人が道の真ん中を歩いている」「車夫(人力車)が全速力で走って来ても人は避けようとしない」といった記述があり、歩道車道の区別がないことや、道路通行が無秩序になっているのを不思議に感じていたものと思われます。ただし、無秩序と言われつつも、先述の布達による交通取締りは行われているようです。
交通関係の条項に違反して科料・拘留に処せられた人数は次の通りである(資料は「明治11年東京警視本署事務年表」による)。
無灯ニテ諸車ヲ挽ク者 994人
馬車留ノ道路等ヲ犯ス者 286人
車馬ヲ往来ニ置キ行人ノ妨ゲヲナス者 234人
人力車挽等強イテ乗車ヲ勧ムル者 130人
車馬等ヲ馳駆シテ人ヲ触倒スル者 96人
街上ニ於イテ高声ニ唱歌スル者 78人
荷車等往違ノ節、人ニ迷惑ヲ掛ケル者 63人
斟酌ナク馬車ヲ疾駆スル者 55人
酔ニ乗ジ車馬等ノ妨ゲシ者 33人
無灯馬車ニテ通行スル者 23人
※道路交通問題研究会編 道路交通政策史概観より引用
と、「無灯火」「車両通行の妨げ」といった内容が取り締まりの対象になっていることが見て取れます。またその後も、
警視庁告示第9号(明治32年2月3日)は、次のような内容を強調している。「最近、交通量の増大によって、しばしば道路が混雑し、諸車衝突事故など通行上の危険が少なくない。交通事故防止のために、街路取締規則や人力車、乗合馬車など諸車の取締規則には、いろいろな注意規定が設けられている。これらの規定がよく守られていると、事故は防げるものだ」として、人道・車馬道通行の厳守や牛馬・諸車の車馬道左側通行のことなど、最も基本的な5カ条の項目を挙げて注意を呼びかけている。
※道路交通問題研究会編 道路交通政策史概観より引用
ともあり、交通安全に関する内容を伝え始めている事が分かります。
丁度この頃明治31年に日本に自動車が到来しますが、本格的な普及はもう少し先の時代になります。
そして、明治時代に車両の左側通行に関するルールも定められます。
明治33年6月21日、警視庁は道路の使用、管理、通行区分など63カ条にわたる「道路取締規則」を制定した。諸車牛馬は車馬道の左側を、その設けのない道は中央を通行すること、そして、歩行者はみだりに車馬道を通行しないようになど、交通事故防止には特に留意している。
※道路交通問題研究会編 道路交通政策史概観より引用
更に、
警視庁告諭第2号(同39年2月11日)を発した。曰く、「交通事故の発生は、車両を運転する者の不注意や規則違背などに帰せられることが多いが、一方、一般公衆に原因があることも少なくはない。当局としては、出来る限りの予防策を講ずるが、一般の規則遵守がなければ如何とすることもできない。是非、自分で習慣化して危険防止を図って欲しい」との内容を述べ、左側通行を冒頭に、電車の飛び乗り飛び降り、車馬道・電車軌道上の通行、幼児の道路遊び、諸車の疾駆など11カ条にわたって規則厳守を呼びかけている。
※道路交通問題研究会編 道路交通政策史概観より引用
と、より徹底した交通安全の重要さを説いている事が分かります。
今回は江戸から明治時代の移り変わりを調べてみました。
自動車はまだ普及していない時代ですが、人力車などの車両も灯火が義務付けられていたなど、意外な発見もあったのではないでしょうか。
この後の時代についても追って調査してみようと思います。
今の時代では、クルマを運転する方はオートライトの活用と早めのヘッドライト点灯を、
歩行者、自転車の方は明るい色の服装や反射材の着用を実践してみませんか?
●参考
道路交通問題研究会編 道路交通政策史概観 http://www.taikasha.com/doko/index.htm
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大変興味深い内容ですね。シリーズ化して続編をお願いします!